‘東北大震災の支援’ カテゴリーのアーカイブ

到着

2011年5月30日 月曜日

本日ムーブが「届きましたと」連絡がありました。

無事到着して安心しました。

ムーブ

2011年5月24日 火曜日

本日、輸送業者に引き渡しました。

走行距離が少ないので、まだまだ活躍できると思います。

7年間お疲れ様でした。

車両の提供

2011年5月23日 月曜日

被災地では多くの車両が不足しており、メーカーでの大幅な減産の影響もあり、

供給がままならないようです。

そこで旭寮では使用している軽自動車(ダイハツムーブ)を無償譲渡することにしました。

譲渡先は岩手県釜石市にある老人施設です。

帰宅

2011年4月5日 火曜日

高速道路で気づいたことがありました。

福島県内のサービス・パーキングエリアだけ、店内の商品が

異様に少なかったのです。なにかとても気になりました。

やはり福島県への支援が一番必要なのではと感じました。

今回感じたのは、刻一刻と必要な支援が変化していることでした。

何をしたらいいのかよく判らず、物資を運んだだけの感じもあります。

でも、岩手、宮城の青年経営者会の仲間は全く同様のことを言っていました。

「来てくれただけでうれしい。」

やはり人間は精神的な生き物だと感じました。

また、これだけ広範囲な大災害は、長期に渡る継続的な

支援が不可避と実感しました。

旭寮でも、できることを続けて行きたいと思います。

仙台の被害状況

2011年4月4日 月曜日

仙台の津波による被害も同様に壊滅的でした。

宮古市からは相当時間がかかる距離にあり、

この海岸沿い一体が甚大な被害を受けていますが、

これでも被災地の半分も満たしておらず、改めて今回の震災は

広域にわたっての大災害であるということを実感しました。

仙台の中心街では地下鉄がまだ止まっており、道路も所々

段差があったりと、津波だけでなく揺れによる被害も大きいと

感じました。

むつみ荘の施設長さんによると、ガソリンスタンドもやっと

今日あたりから少し良くなったと話していました。

 

仙台市の工業地帯。

 

住宅街。

 

被災地から少し離れた場所は、依然と変わらないような日常が。

仙台へ

2011年4月4日 月曜日

宮古市で支援物資の仕分け作業をするグループと別れ、

青年経営者会のメンバーでもある仙台市の

母子生活支援施設「むつみ荘」へ向かいました。

盛岡へ向かう峠は雪でした。

風呂

2011年4月3日 日曜日

宮古市内の入浴施設が数日前に営業を再開したそうです。

ライフラインや食料など何も無く、覚悟して、それなりの準備をし、

宮古市に来たのですが、まさか風呂に入れるとは。

やっぱり日本人は風呂だと思いました。いやされます。

避難されている方をはじめ、まだ多くの方が風呂に入れてない

と思われます。しかしこの様な施設に来ようにも、移動の手段が

ありません。送迎等、入浴の支援は是非必要だと感じました。

 

この駐車場では自衛隊による炊き出しが行われていました。

宮古市社会福祉協議会

2011年4月3日 日曜日

宮古市社会福祉協議会は津波の被害が無かったようです。

ボランティアの登録(物資の仕分け作業)や

テント張りなど行いました。

釜石市

2011年4月3日 日曜日

釜石市の中心街は2mほどの津波だったそうです。

歩道には家の中のゴミ等が積み上げられていました。

老人保健施設

2011年4月3日 日曜日

宮古市の社会福祉法人岩竹会と交流のある

山田町船越にある老人保健施設「シーサイドかろ」。

 

その隣の障がい者支援施設「はまなす学園」。

日常

2011年4月3日 日曜日

現地に行って解ったことは、津波の被害の無い所は、

普段と全く変わりないように見えるということです。

津波を受けた場所と受けてない場所が、

ハッキリと線を引いたようになっています。

 

ガソリンスタンドや道の駅もいつもと変わらない様子。

 

のどかな町並み。

 

ここから2~30mで、津波による壊滅地帯が。

 

堤防も破壊されていました。

山田町

2011年4月3日 日曜日

宮古市となりの山田市の状況です。

海沿いは行けども行けどもこの様な状況でした。

段々と感覚が麻痺してきました。

宮古市役所

2011年4月3日 日曜日

1mほどの津波でも破壊力はとても大きい。

 

泥だらけのパトカーは普段見かけることはありません。

 

 

信号が止まっているところは警察官が対応しています。

 

宮古市役所の入り口。

1・2階は津波で使えなくなっていました。 

避難所

2011年4月3日 日曜日

宮古市では私たちが到着する前日に、ゲートボール施設の体育館へ

避難所を移動したそうです。900名の方が避難しているそうです。

なにかとてもピリピリした雰囲気を感じました。

パーテーションはありませんでした。

ここではなにも支援ができず...

施設となりのグラウンドでは仮設住宅の建設が行われていましたが、

材料(特に、大半が東北で生産されているベニヤ板)が足りず、

ほとんど進んでいないとのことでした。

壊滅

2011年4月3日 日曜日

ここも住宅地だったそうです。

一番ひどいところは、なにもありません。